Last Update: 2012/05/06

林田力

東急不動産だまし売り裁判

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東急不動産だまし売り裁判


東急不動産だまし売り裁判と混雑


取材姿勢について考えさせられる話です。私は自己の経験した東急不動産だまし売り裁判について取材を受けた経験があります。その際のエピソードを説明したいと思います。ざっくばらんに長時間話したケースで、脱線した雑談も交えて話したのですが、それ故に間違った認識が生じてしまいました。

東急グループの消費者無視の体質ということから、首都圏私鉄の混雑率ワースト1である東急田園都市線をはじめとする東急電鉄の混雑・遅延について言及しました。

首都圏私鉄は観光名所・行楽地への乗客輸送で発展した経緯があります。東武は日光、小田急は箱根、京王は高尾山、西武は長瀞です。また、京成は成田山新勝寺、京浜急行(京急)は川崎大師への参詣鉄道として出発しました。ところが、そのような要素が東急にはありません。

その結果、東急では乗客に快適に過ごしてもらおうというサービス精神が乏しくなります。沿線開発・金儲け第一であり、「効率的」に運ぶことが優先され、人を物のように詰め込むことに問題意識が生じにくい企業体質になります。

そこから「学生時代の通勤ラッシュが大変だった」などの個人的な雑談に広がったのですが、そこから何故かマンションを購入することで通勤時間は短くなったという間違った認識を与えてしまいました。実際は長くなっており、事実とは逆でした。原稿を見て驚いて訂正を依頼したという経緯があります。事前チェックがあったために助かったケースです。

どうやら、東急不動産のマンションを購入した動機や利点を説明したいという思いがあったようです。購入動機はパンフレットなどでセールスポイントになっていた二面採光・通風、緑道公園の眺望です。これらは不利益事実不告知(隣地建て替え)によって消滅し、それ故に売買契約を取り消しました。

このように説明しましたが、「採光や通風の面では無価値になったが、別の面では利点がある」というストーリーを作りたかったようです。しかし、東急不動産のマンションには日照・採光・眺望以外の面でメリットとなるような点はありませんでした。裁判で東急不動産側から論点そらしのために物件のメリットが主張されることを予想しましたが、全くと言ってありませんでした。

事業主である東急不動産にとって分譲マンションは売ったら売りっぱなしであり、物件のメリットを説明できないものでした。甲第42号証「原告陳述書(二)」では「購入前は物件の価値を、時には嘘を並べてまでもアピールするが、購入後は物件の価値を貶める表現を平気で使う」と批判しています。

また、購入前は東急という企業への信頼があったことも事実です。これは今から考えると信じられないことですが、東急グループの消費者無視の体質が一般に知られるようになった時期は東急不動産だまし売り裁判後です。

東急不動産だまし売り裁判を契機として、インターネット上では東急リバブル・東急不動産に対する批判が急増しました。「営業マンの態度が高慢」「頼みもしないDMを送りつけてくる」など「自分もこのような目に遭った」と訴訟の枠を越えた批判がなされ、炎上事件として報道されました(「ウェブ炎上、<発言>する消費者の脅威−「モノ言う消費者」に怯える企業」週刊ダイヤモンド2007年11月17日号39頁)。

それ以前も東急リバブル・東急不動産は東急ドエル・アルス南砂サルーテやアルス横浜台町でも隣地建設を説明せずに販売し、購入者とトラブルになっていました。東急グループの消費者無視の体質は知っている方は知っていましたが、私も含めて一般には浸透していませんでした。東急側も具体的な物件の利点がなくても企業への信頼がセールスポイントになっていたという事情がありました。




日弁連理事会で不動産問題の意見書案が審議


日弁連理事会が2012年3月15日に弁護士会館で開催された。ここでは不動産問題に関係する意見書案が審議された。

民法改正に関する意見書案では以下の意見が提示され、承認された。不実事実の告知を受けた者が事実を誤認し、その誤認により意思表示をした場合には、取り消しできる旨の規定を民法に設ける。契約の解除要件について、「軽微な不履行での解除を認めず、重大な不履行を要求する」考えには反対する。

これまで日本では問題があっても契約を白紙に戻すことを中々認めなかった。林田力は東急リバブル・東急不動産から隣地建て替えなどの不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされ、裁判で売買代金を取り戻した経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社)。この東急不動産だまし売り裁判が消費者契約法第4条第2項(不利益事実不告知)で不動産売買契約が取り消されたリーディングケースになったことが示すように、不動産売買契約の白紙化は容易ではない。

東急不動産だまし売り裁判は氷山の一角である。東急リバブル・東急不動産の顧客に限定しても類似ケースは多数存在する。それ故に民法でも類似ケースが広汎に保護されることを期待する。

住宅建築請負契約における前払金の規制に関する意見書案では以下の意見が提示され、承認された。住宅建築業者は注文者に対して、設計図書や代金内訳明細書や見積書また工事工程表を交付しなければならない。過剰な前払金請求の禁止と違反した場合の行政処分を含めた法的規制を設ける。

今後の大震災に備えるための建築物の耐震化に関する意見書案の件では以下の意見が提示され、承認された。昭和56年以前の新耐震基準に準拠していない建築物所有者に耐震診断を受診する義務を課す。この基準を満たしていない建築物所有者は、一定期間内に改修もしくは除却する義務を負う。この工事に関する費用は国が正当な補償として支払う。

建物の耐震補強は総論では誰も反対できない問題であるが、強制することは問題がある。東京都品川区の東急大井町線大井町駅高架下の住民は、耐震補強を口実に東急電鉄から生活保障もなく立ち退きを迫られている。この種の住まいの貧困が耐震補強の義務化で激化する危険がある。日弁連意見書では国の補償を義務付けることでバランスを取っている。

宅地被害者の救済及び予防のための法改正等を求める意見書案の件以下の意見が提示され、承認された。大震災による宅地被害者の救済のための統一的かつ継続的な相談窓口を設置する。被災者生活再建支援法の対象に住家のみならず、宅地も加える。公的助成や税制上の優遇措置等の制度を拡充創設する。ハザードマップの対象範囲を拡大し、迅速な完成を図り、宅地建物取引業者の重要事項説明書において説明させる。除斥期間の硬直な適用を回避する。


脱原発


古川道郎・川俣町長が除染についての公開質問状に回答


市民団体・市民が求め創るマニフェストの会(さいたま市)が2月13日付で福島県知事及び福島県内の市町村長に送付した「除染についての公開質問状」に対し、2月22日付で古川道郎・福島県伊達郡川俣町長から回答が送付された。他の首長が回答しない中で唯一回答を送付した古川町長に謝意を表したい。

マニフェストの会は市民の立場から市民の意見を政権公約にまとめ、その実現を働きかける市民団体である。林田力も世話人の一人で、東急不動産だまし売り裁判を踏まえて「売買契約後に判明した欠陥は契約白紙化に」をマニフェストに追加した。福島第一原発事故後は原子力発電の全廃を求めて、積極的に提言している。

公開質問状は「除染を行う前に県民の健康を守るため、移住(主に県外でその費用は除染対策費用等で賄う)を先に行うべき」との立場から作成された。それは、除染についての有識者の見解を学ぶ中で、いくつかの懸念を認識したためである。とりわけ大人よりも体内被曝を受けやすい子どもたちが成長期に被る著しい被害を避けるためには、なによりも遠隔地に避難することが現実的な有効策と考えるからである。

その上で以下の2点の質問を行った。

第一に「除染を行って排除され排出される放射性物質の収集とその保管は、具体的にどのようになされるのでしょうか」である。

第二に「除染は移染・拡散とも言われており、除染の効果は余り期待できない、と言われています。除染によって健康を守る、と言われていますが、それはどのような方法によって検証・実証されるのでしょうか」である。

第一の質問に対し、古川町長は「除染後の放射性物質の収集については、環境省が発行している『除染関係ガイドライン』および福島県が発行している『除染業務に係る技術指針』に基づき収集します。また、その保管については、前述の『除染関係ガイドライン』に従い川俣町の地勢・地形に適した仮置き場を設置します。」と回答した。

第二の質問に対しては以下のように回答した。

「『除染によって健康を守る。』と言うことについては、川俣町の除染を実施することにより『川俣町の町民が、放射性物質から受ける健康被害の危険性を低減させる。』と言うことと同意義と捉えています。

本来ならば、東京電力福島第一原子力発電所から放出された『そこにないことが当たり前』の放射性物質による健康被害に対して、今すぐ直ちに検証・実証することはできません。

しかし、放射性物質を『そこにないことを当たり前』にする努力、除染をすることによって、『川俣町の町民が、健康被害を受ける危険性を排除していく。』ことが重要なことであり、責務と考えています。」

繰り返しになるが、回答を寄せた古川町長の率直さを高く評価する。その率直さは回答内容にも現れている。そこには複数の選択肢の中から考え抜いた最善の解決策としてよりも、目の前で燃えている火に水をかけるような、その場の対応として除染に取り組む姿勢が現れている。

除染によって生じた放射性廃棄物は「川俣町の地勢・地形に適した仮置き場を設置」すると回答するが、恒久的な保管場所についての言及はない。原子力発電は放射性廃棄物の処理方法がないために「トイレのないマンション」と批判されるが、除染もまた膨大な放射性廃棄物の処理方法がなければ「トイレのないマンション」を繰り返すことになる。

また、公開質問状の「除染によって健康を守る」に対して、回答では「川俣町の除染を実施することにより『川俣町の町民が、放射性物質から受ける健康被害の危険性を低減させる。』」と同義語とする。ここに除染幻想の欺瞞を明らかにする回答の正直さがある。

健康を守ることと健康被害の危険性を低減させることは同義ではない。放射性物質の被曝は微量でも危険である(林田力「福島第一原発事故の被曝と医療被曝の比較はナンセンス」PJニュース2011年3月22日)。

危険性を低減させることは文字通り低減させるだけであって、健康を守ることにはならない。健康被害の危険性の低減とは逆に言えば少数の健康被害を容認することである。住民の健康を守ることとは遠く離れた考え方である。これが除染の本質である。


書評


『アヴェロワーニュ妖魅浪漫譚』異界に通じる森


クラーク・アシュトン・スミス著、大瀧啓裕訳『アヴェロワーニュ妖魅浪漫譚』(創元推理文庫)は幻想的なホラー短編集である。フランスの架空の一地方アヴェロワーニュの中近世の年代記と、オカルト現象を扱った降霊術奇譚から構成される。

アヴェロワーニュ年代記は「怪物像をつくる者」で始まる。ローマ・カトリックが絶対的な権威を有している中世フランスを舞台とするが、キリスト教が邪悪な存在に無力であることが浮かび上がる。読者をアヴェロワーニュの世界に誘う入口にふさわしい。

続く「アゼダラクの聖性」ではカトリックの司教にまで背教者が入り込んでいる。それを告発しようとする修道士が主人公であるが、物語は背徳の司教との対決という予想から大きく外れた展開となった。

「イルゥルニュ城の巨像」は死の間際に社会に復讐しようとする降霊術師の物語である。オカルトにはオカルトで対抗する構図を描く。

「アヴェロワーニュの媾曳」は森で逢引しようとして異界に囚われたカップルの物語である。これまでの短編は人間の邪悪な意思の話であったが、ここからは人外の現象が主題になる。続く「アヴェロワーニュの獣」は本書では珍しくSF色のある作品である。未来を描くだけがSFではないと再確認させられる。

「マンドラゴラ」は魔法使い夫婦の話である。闇に葬られた死者の怨念が殺人の事実を明らかにするという展開はホラー作品の定番中の定番である。ここでは魔法や錬金術の原料として馴染みのマンドラゴラを小道具として上手に使っている。

「ウェヌスの発掘」は修道院の敷地から発掘されたウェヌス像の物語である。ウェヌス(ヴィーナス)はローマ神話の美の女神である。キリスト教によってローマ神話は抑圧されたが、ここではウェヌス像が修道士を翻弄する。

「サテュロス」「シレールの魔女」では森が魔物の棲み、異界に通じる領域としてクローズアップされる。以下の文章が示している。

「森には人間にとって有害なものが出没し、キリストやサタンよりも古い原初の邪悪な霊もいる」(201頁)

ここには自然と人間を対立的に位置付け、人間の征服対象と捉える西洋的な自然観が投影されている。この種の西洋思想が環境破壊をもたらしたとして自然と共存する東洋思想の優越を語るナイーブな議論がある。森に安らぎや親しみを感じ、ロハスな生活を追求することは結構である。

しかし、それは人間に飼いならされた、人間に都合の良い自然である。人間の世界とは異質な他者として自然を認めることができるかが問われる。その点の発想が弱い日本では自然を破壊して超高層ビルを建設し、周辺や屋上を緑化することで自然と調和した再開発とデベロッパーが自賛するような勘違いが生まれる。その典型が東急電鉄や東急不動産が東京都世田谷区で進める二子玉川ライズである。

日本でも古くは森を魔物の棲む世界という見方があった。分かりやすい例に映画『もののけ姫』の世界がある。そこでは森は「もののけ」の棲む場所で、人間との間に勢力新生が起きていた。シシ神が討たれた後に森は復活するが、それは最早人を寄せ付けない森ではなくなってしまった。

「サテュロス」では異界の存在は人間にとって害をなすものであった。その社会的視点は「シレールの魔女」で変わらないが、主人公の選択は異なっていた。続く「物語の結末」でも異界の存在に対する抗い難い魅力を歌い上げる。

一方で年代記最後の「蟾蜍のおばさん」は「シレールの魔女」や「物語の結末」のロマンスに冷や水を浴びせる内容になっている。訳者は「蟾蜍のおばさん」が年代不詳のために最後に置いたと説明するが(412頁)、これを最後にすることで宴の後の空しさ寂しさのような印象を与える。

降霊術奇譚にはオカルトにのめり込んだ人物が破滅するストーリーが多い。「アフォーゴモンの鎖」は神に背いて禁忌の術を用いた神官の絶望が描かれる。「魔力のある物語」は先祖の体験とリンクする物語である。

「妖術師の帰還」は悪人が怪奇現象によって裁かれる勧善懲悪型のホラーである。現代日本の幽霊が出るマンションでも起きそうな話である。「分裂症の造物主」は主人公にとって救いがない結末であるが、神と悪魔について哲学的な内容を含んでいる。

「彼方から狩り立てるもの」はインスピレーションを得ようとしてオカルトの世界に足を踏み入れた芸術家が、そのために最愛の人を失ってしまう。その後の「塵埃を踏み歩くもの」は対照的に注意深く節度を持ったオカルト研究者に降りかかった話である。広い意味では本人の不注意に属するが、他者の行為が原因であると明らかにするミステリー色が濃い。(林田力)




『サバンナゲーム』格差社会の犠牲者がヤンキーを殺害する爽快


黒井嵐輔『サバンナゲーム 〜始動〜』(小学館)はモバゲーの小説コーナーで人気となった作品である。バトル・アクション、現代のテクノロジーを超えた武器、ファンタジー世界の超自然的能力、歴史上の人物の活躍とエンターテイメントの数多くの要素が詰まった作品である。

主人公はワーキングプアのフリーターである。「飯を食うために働き、今を生きることに必死な日常」(6頁)を送る格差社会の犠牲者である。それが日本国中を巻き込む殺人ゲーム・サバンナゲームの開催によって、非日常の世界に突入する。

かつて赤木智弘の論文「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」が格差社会の犠牲者の心理を率直に表明したものとして反響を呼んだ。『サバンナゲーム』にも貧困や格差に苦しむ人々が絶望的な毎日から抜け出すために破壊的な事態に希望を求める心理が現れている。

『サバンナゲーム』は人殺しのゲームであり、残虐な描写も存在する。アニメ化も決定されたが、『バトルロワイヤル』に対するものと同じような道徳的な非難が寄せられかねない。救いは主人公達が序盤で殺害する敵がヤンキーであることである。ヤンキーは「いかにも不良じみた風体」(71頁)で、主人公達に絡む社会のクズ的な存在として描かれている。

主人公達にも殺しを楽しむ残虐な気持ちが芽生えるものの、相手がヤンキーであるために主人公側に感情移入できる。また、主人公側も「こいつらと同じ人種になってしまう」(77頁)と自分達を戒めており、ヤンキーとは明確に区別されている。

後半に入ると真に倒すべき敵が浮かび上がってくる。しかし、本書はタイトルに『始動』とあるように導入部で終わっている。続編に大いに期待する。(林田力)




『権力のつかみ方』遅刻癖を切り捨てる健全性


内藤誼人『権力のつかみ方 〜人の心を虜にするJFK式「心理操作の魔術」〜』(大和書房)は、ケネディ大統領の言動を手本として支持されるリーダーになるための秘訣をまとめた書籍である。ケネディの言葉を紹介するが、ケネディの心理に踏み込むよりも、ケネディを導入部にして著者の哲学を全面に出している。ケネディは……と言っているが、危険なので……がいいという箇所もあるほどである(164頁)。

内容は「遠慮するな。厚かましくあれ」などの逆説的な見出しが並び、カバー裏には「あなたの人生観を根本から覆す『変革の書』」と紹介されている。しかし、内容は意外にも真っ当なものが多い。本書は権力をつかむためのハウツー本であり、望ましい権力者像を示すものではない。それ故に権力を悪用したい人物が本書を読んで権力者を目指すことにも使える。

それでも本書の背後にある著者の道徳観念は健全である。たとえば遅刻をする人間への否定的評価は複数箇所で登場する。普段は仏様のような顔をしているという著者であるが、約束の時間を守らない人には怖い顔を見せ、怒鳴りつける(70頁)また、口では綺麗事を語る人物でも遅刻癖があれば、その事実から、これっぽっちも価値がない人物と評価する(111頁)。

本書の提言には相互に抵触しかねない内容もある。たとえば福島第一原発事故で情報隠しが批判された東京電力を反面教師として悪い情報は早く伝えるべきとする(112頁)。ところが、他の箇所では上手な嘘が付けるように日頃から準備しておくことを推奨する(118頁)。

一方では「イヤな相手に、あえて好意的に接する」ことを勧める(35頁)。他方で「苦手な人はどうしたって苦手である。そういう人と付き合うのに過剰なエネルギーを費やす必要はない」と述べる(184頁)。リーダーになる道は一つではない。本書は一つの考えだけが唯一絶対というような幼稚な愚かさとは無縁である。

本書の「まわりからよく思われていない相手を切ると、それ以外の人からの評価を高めることにもつながる」(188頁)は私にも実感がある。しかも、切った相手は遅刻の常習者で、他人の迷惑を省みない人物であった。本書の価値観と合致する。その点もあって納得できる内容が多かった。(林田力)


『新しい道徳』携帯メール依存症は人間を壊す


藤原和博『新しい道徳』(ちくまプリマー新書)は民間人初の公立中学校長として話題を集めた人物が現代社会に即した道徳を提言する書籍である。私は道徳の書籍というものに必ずしも好印象を抱いていない。唯一絶対と信奉する価値観を一方的に押し付ける印象が強いためである。

愛国心教育が典型であるが、愛国心の押しつけを批判する側にも似たような傾向がある。教育現場を覆う管理主義は深刻な問題である。しかし、それを批判する教師側にも自己の考えのみを絶対視し、自己と他者を線引きする偏狭さが見受けられる。同じような管理主義の犠牲者の教師に対しても考えの相違する人々に対しては連帯ではなく、反動的な知事や教育委員会に対してと同じように執拗に攻撃する。

私は政策作りの市民運動に参加したことがある。そこで管理教育批判の立場から「教育の自由」という提言がなされたが、これに対して「教師に好き勝手させるような印象を与える」との反対意見が出され、「教育の自主性」に変更されたことがある。一部の人々の独善は進歩的な市民でさえも辟易させてしまう。

進歩派さえ辟易する状況である。故に「腐った公務員を何とかしてほしい」と考える多数の市民が「荒療治が必要」「病根を断つために極端な手段も正当化される」と管理教育を推進する首長を支持してしまうことも説明がつく。強権的な首長の手法に問題があっても、むしろ問題があるからこそ支持してしまう心理である(林田力「都知事選出馬の渡辺美樹・ワタミ会長の経営の評価」)。

http://www.hayariki.net/poli/tokyo.html

これに対して『新しい道徳』は価値観の多様性を前提とする。唯一絶対の正解の押しつけを否定することから出発する。それ故に著者の結論に納得する人だけでなく、著者の結論を支持しない人も一つの考え方として読む価値がある。

興味深い内容は携帯メール依存症批判である。携帯メール依存症の問題は既に様々なところで指摘されている。本書では携帯メール依存を世代間ギャップと捉えるきらいがあるが、若年層の間でも携帯メール依存症は恥ずかしく、迷惑な存在である。若年層に人気の漫画の中でも携帯メール依存症は風刺されている(林田力「空知英秋『銀魂』に見るゼロゼロ物件業者への対抗価値」PJニュース2011年11月4日)。

http://www.pjnews.net/news/794/20111103_2

この点で著者の若者観にはステレオタイプな傾向があるものの、携帯メール依存の弊害の指摘は重たい。携帯メール依存症患者は携帯メールによってつながっているという安心感が生まれる。これは幻想的なものであるが、本人にとって心理的な安心感が得られる。

これが相手の都合を無視してメールを送りつけながら、返事がないとキレるという身勝手な反応をもたらす理由である。メールは電話と異なり、非同期性が最大の特徴であるが、同期的な使用法しかしないならば愚かである(林田力「電子メールの同期性と非同期性(上)」PJニュース2010年12月16日)。

このように携帯メール依存症は携帯メールのコミュニケーションの世界でも迷惑な存在である。しかし、携帯メール依存症の弊害は携帯メールの世界にとどまらない。つながっているという幻想的な安心感によって感覚が麻痺し、いつでも質問すれば誰かが反応してくれると考えてしまう。その結果、自立心や異なる価値観に立脚する他者の話を聞く能力が失われると指摘する。

この指摘は説得的である。たとえばパソコンのメールを携帯メールの感覚で雑な文章で書いて読み手の反感を買うケースは現実にある。まさに道徳(モラル)の問題として取り上げる価値のある話である。携帯メール依存が人間を壊すことが理解できる内容であった。


『贋作に明日はない』ゼロゼロ物件業者とは対照的な人情味ある家主


ヘイリー・リンド著、岩田佳代子訳『贋作に明日はない』(創元推理文庫、2012年)は贋作ミステリーの二作目である。主人公アニー・キンケイドは世界的な贋作者の孫娘で、駆け出しの画家・装飾家である。舞台はサンフランシスコである。贋作がテーマとなっているだけあって、芸術の話題が豊富である。

話題となる芸術はヨーロッパに特化されているが、登場人物にはアフリカ系やアジア系もおり、人種のサラダボールとしての米国を描いている。主人公の祖父は会話にフランス語が入るフランス愛好者であるが、一方で本書はフランス語を「口から出まかせを並べ立てるのに、このうえなく適した言葉」と扱き下ろすことも忘れていない(154頁)。

主人公は駆け出しの芸術家で生活は苦しい。そのために家賃も滞納気味である。しかし、家主は「この先、家賃支払いの都合がつかないような状況に陥ったら、ちゃんと言ってきてくれ」とまで言う(58頁)。人情味ある家主の存在によって新たなストーリーが生まれる。

駆け出しの芸術家という主人公は夢も追って上京した日本の若者とも重なるが、日本の状況は深刻である。僅か一日の家賃滞納で高額な違約金を請求し、追い出し屋に豹変するゼロゼロ物件業者が横行している。現代日本の閉塞感はゼロゼロ物件などの貧困ビジネスが横行する住まいの貧困が要因になっていることを再確認させられる。

冒頭から死体が発見され、ミステリーとしての舞台が整うが、主人公は事件を解決する探偵ではない。刑事の友人はいるが、警察に協力して事件を解決する立場でもない。そのために事件解決に向けて一直線という物語ではない。むしろロマンスの粋な会話を楽しむ作品である。

スリルという点では序盤は張り込み中に友人を呼んでパーティーをするなど緊張感の欠片もない。ラストは緊迫感あふれる状況であるが、メアリー・グレーの解説が深刻感を薄め、スリルの中にもユーモラスな雰囲気にしている。(林田力)


『建礼門院徳子』徳子の秘められた心理描写


鳥越碧『建礼門院徳子』(講談社、2011年)は平清盛の娘にして、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母親である建礼門院徳子を描いた小説である。平家物語のラストを飾る大原御幸で幕を開け、徳子の幼少期に遡る。

徳子の秘められた心理描写が中心で政治的な事件は淡々と描かれる。平家は最終的には源氏に滅ぼされるが、それ以前に寺社勢力などの旧来の支配層を敵に回していた。そのきっかけを『建礼門院徳子』では高倉上皇が上皇になってから最初に参拝した神社が平家の信仰する厳島神社であったためとする(109頁)。

上皇になって最初の社参は石清水八幡宮や賀茂神社などと先例では決まっていた。この先例無視は寺社勢力軽視と受け止められ、寺社勢力の反感を買う。それまで互いに競い合っていた寺社勢力が反平家で一致団結した。

東急不動産だまし売り裁判で東急不動産はマンションだまし売り被害者本人を無視して話を進めようとし、被害者から反発を受け、提訴された(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年、14頁)。順番を間違えると、まとまるものもまとまらなくなる好例である。


『QuickJapan』100号、『AKB0048』特集でAKB48の本質論


『QuickJapan(クイック・ジャパン)』(太田出版、2012年02月11日発売)はサブカルチャー系雑誌である。記念すべき第100号は大きく4本の特集を組む。

第一に2012年4月放送開始のアニメ『AKB0048』(エーケービー・ゼロゼロフォーティエイト)の特集である。記事では『AKB0048』の作り手がAKB48の本質をつかんでいることが理解できるようになっている。また、現実のAKB48と『AKB0048』の相違点である襲名制や「会いに行くアイドル」についての分析も鋭い。

第二の特集は「あなたと未来を変えるキーパーソン20」である。入江悠、樋口毅宏、劇団ひとり、綾小路翔の各氏が映画監督、作家、ミュージシャン、芸人について各々5人をピックアップする。選考者も気鋭の存在であり、尖がった選び方がされている。面白かった内容は「入江悠が選ぶあなたと未来を変える映画監督5人」である。家賃を平気で滞納しているという映画監督を、変人ぶりを示すエピソードとして肯定的に評価する(93頁)。

一方で日本では僅か一日の家賃滞納で高額な違約金を請求し、追い出し屋に豹変するゼロゼロ物件業者もいる。入江氏も「賃貸&生活費などの現状維持が厳しくなった」(89頁)と書いているように気鋭のクリエイターを取り巻く経済的状況は厳しい。ゼロゼロ物件などの貧困ビジネスは文化の破壊者でもあると実感する。

第三の特集は「テレビ・オブ・ザ・イヤー2011」である。現役放送作家9名の対談で面白いバラエティ番組を選ぶ。満場一致で大賞を受賞した番組は対決物であるが、敗者へのフォローをしっかりしている点が評価された(64頁)。番組プロデューサーへのインタビューでも「素人ナンバーワン決定戦にしちゃうと、少なからず傷つける人が出てくる」とし、両者のプライドを守ることを重視したとする。勝負は番組が勝手に決めたルールで対戦した結果であり、絶対的な勝敗ではないとの意味が込められている(72頁)。

第四の特集は高城れに(ももいろクローバーZ)へのインタビューである。ももいろクローバーZはアクロバティックなパフォーマンスで通常のアイドルと一線を画した存在として注目されるが、もともと高城さんはモーニング娘。の久住小春に憧れていたという(132頁)。

モーニング娘。もデビュー当時はテレビ東京のオーディション番組の落選組を集めて結成され、B級感漂うグループであった。『LOVEマシーン』などのヒット後もアイドルとして偶像化されるよりも、面白さを持った存在として人気を誇った。そのモー娘。が正統派アイドルとして対比される存在になっていることに時代の移り変わりを実感する。

インタビューでは遅刻をしないことやレッスンに誰よりも早く行くことなど高城さんの努力も語られている(133頁)。このような小さな積み重ねはモーニング娘。やAKB48とも共通する。異色のアイドルとして注目される「ももクロ」であるが、根っこのところではつながっている。


『検事失格』と不見当


市川寛『検事失格』は冤罪事件・佐賀市農協融資事件で冤罪被害者を取り調べ中に「ぶっ殺すぞ!」と脅迫した元検事によるノンフィクションである。取り調べ中の暴言発覚で厳重注意処分を受けて2005年に辞職し、弁護士になっている。小沢一郎氏の陸山会事件に国策捜査・不当裁判との批判が出ている中でタイムリーな出版である。

冤罪加害者・暴言検事が弁護士にスライドし、正義の告発者としてもてはやされることには違和感を禁じ得ない。書籍の内容も検察庁の内部・教育体制を暴くことが主眼で、本人の反省という点では弁解や言い訳が目につく。冤罪事件・布川事件の冤罪被害者支援者は厳重注意処分を受けた市川氏に対して「まるで反省している様子もなく、『蛙のツラに小便』程の効果もなかったように見受けられました」と語っている。このような人々の声も大事にしたい。

一方で刑事裁判有罪率が99%という人権が保障された先進国として異常な状況に制度の問題があることも事実である。たとえば「不見当」という裁判用語がある。主に刑事裁判で弁護人側の証拠開示要求に対して検察側の回答で使われる。これは提出を要求された書類や証拠物が「見当たらなかった」ことを指す言葉であるが、当該物件を提出したくないときに「ない」と嘘をつかずに誤魔化すために使われる。

実例として痴漢冤罪事件を扱った映画『それでもボクはやってない』でも弁護人側の要求に検察が「不見当」と答えている。また、冤罪事件・布川事件でも弁護人側が要求する供述調書を検察側が不見当と答えた。これは2006年3月5日に放送されたテレビ朝日『ザ・スクープスペシャル』「検証!日本の刑事司法 〜 布川事件39年目の真実 〜」でも取り上げられた。

「不見当」は弁護人側から「不見当でごまかさず誠実に答えるべき」「合理的な説明を求める」と批判される言葉である。「不見当」との回答で済まされてしまう裁判の仕組みに問題がある。『検事失格』が制度にメスを入れる契機になれば、大きな価値がある。(林田力)


『失われたミカドの秘紋』天皇制への批判的視点


加治将一『失われたミカドの秘紋 失われたミカドの秘紋 エルサレムからヤマトへ 「漢字」がすべてを語りだす!』(祥伝社、2010年)は陰謀論的な歴史観に立って歴史の新説を提示する小説である。歴史に対する見解や主張は登場人物のセリフとして語られており、著者の思想そのものとはワンクッション置いている。

本書中の思想には問題がある内容も含まれている。中国をチャイナと呼んでいる。中華思想に否定的な立場からのものであるが、相手国を無視した呼び方である。これでは現代日本が倭と呼ばれても文句を言えない。

また、偽満州国民であった満州族の人物を登場させ、偽満州国を肯定的に評価させている。その種の考えは偽満州国の特権階級が抱くことはあり得るが、満州族に一般化することは歴史の歪曲・美化になる。

さらには漢族がアフリカ発祥の現人類とは異なる北京原人の子孫という悪質なレイシズム思想も登場する。救いは日本民族に対しても同じように相対化していることである。民族の純血性よりも多様性に価値を見出している。中国を貶めて自民族の優位性を主張するネット右翼とは相違する。

そして、問題を差し引いても『失われたミカドの秘紋』は魅力的な思想を提示する。天皇崇拝者が登場するが、彼は天皇の自由を奪い、自らは天皇の権威に隠れて特権をむさぼる宮内庁を強く批判する。これは日本の官僚機構の国民無視の特権意識に通じる。

日本の官僚には国民の声を無視して自らに都合のよい政策を実施する傾向がある。国民が疑問を提起しても、疑問に答えず、国の基準に従っているから問題ないという論理を振りかざす(林田力「二子玉川ライズ住民訴訟は住民運動の勝利」)。究極的には「お上が決めたことに臣民は逆らうな」という発想である。

その種の勝手な振る舞いが可能な背景には天皇がある。官僚は自分達が天皇に近い立場にあるということを自らの権威としている。「切り札は天皇の権威、ご威光」で、「下々のこれ以上の詮索は不敬である頭が高い」とする(91頁)。尾崎行雄の以下の言葉は現代にも妥当する。

「彼らは常に口を開けば直に忠愛を唱え、あたかも忠君愛国は自分の一手専売のごとく唱えておりますが、その為すところ見れば、常に玉座の蔭に隠れて、政敵を狙撃するがごとき挙動を執って居るのである。彼等は、玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか。」

このような天皇制への批判的視点は林田力も出演した真相JAPAN×目覚めるラジオのDVD『ジャーナリスト講座?すべてを疑え!』でも指摘されている。

さらに『失われたミカドの秘紋』では中華人民共和国が天皇制で利益を得ているという嫌中右翼が目を白黒させそうな話も登場する。中国は南京大虐殺や靖国神社参拝では日本を非難するが、天皇制という根本問題では沈黙する。それは中国政府にとって天皇制は利益だからとする。現実に天安門事件での西側世界の非難がうやむやになった契機が天皇訪中であった。

天皇制の下で天皇の権威に隠れて官僚が甘い汁を吸っている限り、日本は中国の脅威ではない。逆に日本が共和制になり、国益を考える政治家が登場する方が脅威とする。右翼には国益重視を口にするが、国益を害しているものは何か見直す必要がある。


『憤怒の王国』韓国社会の貧困や苦しみと怒り


文永南著、林蓮訳『憤怒の王国』(第三書館、1994年)は韓国のベストセラー小説である。朝鮮王朝の国王の末裔が亡国の恨みと怒りを胸に90年代に天皇・明仁を狙撃する。韓国人の天皇、そして日本に向けられた怒りを描く力作である。

韓国でテレビドラマ化されたが、天皇を狙撃するシーンに対して日本政府が放送自粛を要求するという外交問題になった作品である。そのためにセンセーショナルな反日作品と受け止められがちであるが、実態は全く異なる。

『憤怒の王国』では日本の植民地支配に端を発する韓国社会の貧困や苦しみを丁寧に描いている。帝国主義支配の象徴である天皇に怒りが向かうことが日本人でも納得できる。日本政府にとって自国の象徴が狙撃されるシーンは面白くないが、過去の植民地支配を踏まえれば日本政府の自粛要求は一方的であり、自国の立場にのみ固執したものである。

憤怒の王国はセンセーショナルな作品ではなく、むしろ序盤や中盤はストーリーの方向性が見えずにもどかしいくらいである。さらに辛辣な批判の矛先は韓国社会にも向けられている。これは歴史を歪曲してまでも自民族を美化しなければ民族的自尊心が保てない日本のネット右翼とは対照的である。

深い含蓄のある作品をセンセーショナルに反日作品と脊髄反射する傾向は金辰明『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』に対する反応とも共通する。日本社会の未成熟さを示すものである。(林田力)




『魔法の代償』ヴァルデマールを舞台としたファンタジー


マーセデス・ラッキー『魔法の代償』は架空の王国ヴァルデマールを舞台としたファンタジーである。原題は『Magic's Price』。ヴァルデマール国を中心とした壮大な物語「ヴァルデマール年代記」の一冊で、伝説的な「魔法使者」ヴァニエルの生涯を描く「最後の魔法使者」三部作の完結編である。ヴァルデマールは中世ヨーロッパのような社会であるが、特別な素質を持った人々が魔法や超自然的な能力を使える世界である。

ヴァルデマールの国王ランディルは原因不明の病に侵されていた。あらゆる治療に成果はなく、若き詩人ステフェンが国王の苦しみを和らげるために連れてこられた。ステフェンの歌声によって国王の苦しみが薄れる。

そしてヴァニエルとステフェンは互いに惹かれあう。上巻は二人のじれったい恋の駆け引きに多くの紙数が割かれている。最後を除いて魔法を駆使した緊迫するバトル要素は乏しい。ヴァルデマール国の日常が綴られているが、その内容には現代社会にも通じるものがある。

第一に過労死である。ステフェンは類い希なる能力のために治療者達の研究材料になるが、治療者達に自分の能力を示し続けて精力を消耗してしまう。優れた能力者でも有限という点でリアリティがある。消耗したステフェンを救ったものは友人メドレンのアドバイスであった。

治療者の依頼を嫌味たっぷりに断るステフェンの演技が魅力的である(155頁)。頑張ることを美徳とする特殊日本的精神論とは対照的である。日本には過労死という翻訳不可能な現象が起きている(林田力「過労死概念の変遷」PJニュース2011年3月3日)。メドレンのように助言する友人とステフェンのように断る勇気が過労死防止になる。

第二に職業差別的発想の克服である。物語世界では資格を持った魔法使いを「魔法使者」、それ以外の能力者を「使者」と呼ぶ。魔法使者の方が単なる使者よりも格上というイメージが抱かれている。実際は魔法使者と使者は能力の種類の相違による区別であり、ある分野では魔法使者よりも使者が優れている。現代社会でも単なる役割の相違を上下にランク付けする発想がある。この固定観念を改めようとするヴァニエルの戦いは現代にも通じるものである。

第三に差別的発想の克服である。ヴァニエルには「共に歩むもの」としてイファンデスと呼ばれる馬の姿をした超自然的存在がいる。外見は馬そのものであるため、知らない人からは知性を持った存在として扱われない。

知っているステフェンでもイファンデスが見かけ通りの存在でないことを自分に言い聞かせなければならなかった。ところが、ヴァニエルの母のトリーサは貴婦人の客人に対するように自然にイファンデスに話しかけた。これを見てステフェンは愕然とする(302頁)。

現代社会にも外見による差別はある。差別はしてはいけないと思うあまり、不自然になることもある。少なくともステファンの境地は心がけているが、トリーサの境地は容易ではない。

上巻のラストで穏やかだった日常が急展開する。ヴァニエルの最後について意味深長な暗示も登場した。魔法使者の最後を語ると思われる下巻に注目である。

『魔法の代償』上巻のラストでヴァニエルは、あまりにあっけなく敵の攻撃を受けてしまった。下巻では攻撃が偶発的なものではなく、陰謀の存在が仄めかされる。同時に敵対勢力の卑劣さも浮き彫りになる。それはヴァニエルの台詞で表現されている。

「ぼくの敵はぼくと面と向かいあおうとせずに、他人を通じてぼくを攻撃してくる」(66頁)

これは東急不動産だまし売り裁判で悪質な不動産業者と闘った経験のある林田力にも思い当たる内容である(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社)。ヴァニエルは物語世界の中でも圧倒的に強力な魔法使いである。そのような存在と対等に戦える敵キャラクターを安易に登場させるならば物語の世界観を破壊する。敵が卑怯者であることは、ある意味で必然的である。

そして卑怯者である代償として、この敵キャラクターは、読者の印象に残らないまま退場する。バトルものでは敵ながらカッコいいという魅力的なキャラクターを登場させ、主人公を圧倒するシーンを用意する例が多い。これに対して『魔法の代償』では卑怯者には見せ場すら与えないという徹底ぶりである。反対に戦闘能力では足手まといになるステフェンも物語の中ではヴァニエルに同行する存在意義が与えられている。

下巻でも現代社会に通じる含蓄は健在である。魔法使者のサヴィルはテレポーテーションの効果のある門の魔法で体力を消耗してしまう。そのために人間が快適に座ったままで旅ができる技術の進歩を夢想する。これは現代文明の鉄道や飛行機そのものである。サヴィルは、そのような旅は「見知らぬ人々の力量を信じてわが身を委ねることになる」と考える(20頁)。高度に分業が確立した現代文明への皮肉にもなる。

魔法の代償では刊行済みのヴァルデマール年代記で言及されていた様々なエピソードや人物について語られる。それが作品世界を豊かで一貫性あるものにしている。作者が作品世界を大切にしていることが分かる。(林田力)


『それでも企業不祥事が起こる理由』『組織の思考が止まるとき』


コンプライアンスをテーマとした書籍『それでも企業不祥事が起こる理由』『組織の思考が止まるとき』は日本社会に蔓延する形式的な法令遵守精神を批判する点で共通する。

國廣正『それでも企業不祥事が起こる理由』(日本経済新聞出版社、2010年)は弁護士による企業不祥事をテーマとした書籍である。「法律は守っている」と考えている企業でも企業不祥事が続発する理由を明らかにする。ここにはコンプライアンスに対する誤解がある。コンプライアンスは「法令遵守」と訳されがちであるが、これが躓きの石である。著者はコンプライアンスを企業に対する社会的要請を正確に把握し、これに応じて行動することと位置づける。

郷原信郎『組織の思考が止まるとき 「法令遵守」から「ルールの創造」へ』(毎日新聞社、2011年2月26日)は日本の組織のクライシス(危機)の現場を検証した書籍である。扱う事例は検察の証拠改竄事件やトヨタのプリウスリコール問題、原子力発電所の点検漏れなど幅広い。ここでも単に法令の遵守に終始することなく、社会からの要請に応えることこそがコンプライアンスの本旨と主張する。

これは重要な指摘である。法の網の目をくぐる悪徳業者はコンプライアンスに反する企業である。たとえばマンション販売業者が不利益な事実を隠して新築マンションを販売したとする。悪徳不動産業者ならば「嘘はついていない」と開き直るだろう(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、13頁)。しかし、不動産という一生に一度あるかないかの大きな買い物をする消費者からの要請を完全に無視している。

そして形式的に法を守りさえすればいいという形式的コンプライアンス精神は犯罪者の思考であり、実際には往々にして法律に違反している。何故ならば消費者の権利を保護するなどの法の目的を無視しているからである。東急不動産だまし売り裁判でも東急リバブル・東急不動産は宅地建物取引業法の重要事項説明義務を免れたつもりになっていたが、消費者契約法違反(不利益事実不告知)で敗訴した。

残念なことに法令を遵守しさえすればいいという誤った形式的なコンプライアンス精神は企業だけの問題ではない。行政にも根強い。行政には法令通りにやっていることを根拠に国民からの疑問の声を封殺する姿勢がある。

たとえば除染による放射性物質の拡散の問題を指摘した市民団体・市民が求め創るマニフェストの会の公開質問状に対し、古川道郎・川俣町長は以下のように答えた。

「除染後の放射性物質の収集については、環境省が発行している『除染関係ガイドライン』および福島県が発行している『除染業務に係る技術指針』に基づき収集します。また、その保管については、前述の『除染関係ガイドライン』に従い川俣町の地勢・地形に適した仮置き場を設置します」(林田力「古川道郎・川俣町長が除染についての公開質問状に回答」PJニュース2012年3月5日)

除染の危険性に対する疑問には答えず、環境省や福島県の基準に従っているから問題ないという姿勢である。この種の姿勢は究極的には「お上が決めたものであるから、臣民は黙って従え」という姿勢につながる。この種の姿勢は新種の公害被害に無力である。「法令がないから被害が出ても仕方がない」という姿勢では憲法が生存権などの人権を保障している意味がない。

その中で二子玉川ライズ住民訴訟を和解的解決で終結した保坂展人・世田谷区長の姿勢は注目に値する。二子玉川では再開発による住環境破壊が大きな問題になっているが、保坂区長は「再開発区域周辺の環境影響に対しましては、区としても環境に十分留意して、法令に基づく環境影響評価の手続きに則った適切な対応はもとより、きめ細やかな対応を事業者に求めてまいります」と陳述した。

ここでは「法令に基づく環境影響評価の手続きに則った適切な対応はもとより」と法令以上の「きめ細やかな対応」を求めることを宣言する(林田力「二子玉川再開発住民訴訟終結で公害行政から一歩踏み出した保坂世田谷区政」PJニュース2012年3月19日)。法令遵守はもとより、それ以上の対応を追及することが実質的なコンプライアンスになる。


『茶道をめぐる歴史散歩』茶室は結界


井上辰雄『茶道をめぐる歴史散歩』(遊子館、2009年)は日本史の研究者による茶道をめぐるエッセーである。見開き2頁で一つのテーマを語っており、読みやすい。茶道は室町時代以降の文化という印象が強いが、古代史の研究者らしく古代中国から説明を始めている。

当然のことながら茶道に対する含蓄のある言葉も多い。以下の文章は高価な茶道具がオールマイティではないという、茶道具の奥深さを示している。

「一つひとつの茶器が茶の湯の趣向にぴったりとあてはまり、しかもそれぞれが、有機的に生かされていなければならない」(58頁)

また、茶室という空間の特殊性を指摘する。「茶室には、自ら理想とする自然の景を茶庭に構成し、そのなかに我が身は包摂されることを願う」(47頁)

躙り口については「二尺二寸ぐらいの狭い出入口を、身をかがめてくぐる緊張感は、わたしたちの心をわななかすといってよい」(174頁)と語る。

さらに一休宗純の歌「有漏路(うろじ)より  無漏路(むろじ)へ帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け」を引用した上で、露地を「有漏路より無漏路に入る結界」と説明する(177頁)。

この茶室理解は妥当である。侘び茶の大成者・千利休は茶室を現世における清浄無垢な仏土を実現する場と位置付けた。その清浄なる空間に入るに際しては心を入れ替えることが求められる。浮世の雑念を捨てて茶室に入るための仕掛けが露地(茶室に付随する庭園)である。

茶室は最小の空間に豊かな広がりを与える世界に誇る日本の伝統建築である。茶室が豊かな広がりを有する理由は、露地とつながっている点に求められる。つまり、茶の湯の空間は、茶室だけでなく、外界(露地)と一体に仕組まれている。茶道も桂離宮などと同じく庭屋一如の精神を継承している。

「或る対象は、それが置かれるべき場所に置かれることによって、はじめてその真価を発揮する。花は花瓶に生けられ、花瓶は床の間に置かれ、床の間は茶室の中にあり、茶室は風雅な庭園の一隅にしつらえられている」(尾高朝雄『自由論』ロゴス社、2006年、45頁)。

利休が露地に高い精神性を付与していたことは以下の言葉が示している。

「露地はただ浮世の外の道なるに心の塵をなどちらすらん」

「露地は草庵寂寞の境をすべたる名なり、法華譬論品に長者の諸子三界の火宅を出て露地に坐すると説き、また露地の白きと云ひ、白露地共いへり。一身清浄の無一物底也。」(「南方録」)

心理学者も露地の心理効果を以下のように説明する。

「露地とは、この浮世の外にある地上の天国、いや極楽の超ミニ版への超ミニ参道で、進行につれて刻々と清浄感や鎮静効果が深まる」(安西二郎『新版 茶道の心理学』淡交社、1995年、33頁)。

現代では茶室を独立の建物として構えることは稀で、住宅内の一室を茶室とするケースも多い。その場合でも茶室の隣でザワザワ、ガヤガヤと話し声が聞こえるような場所では茶室の静寂さはなくなってしまう。露地が無理としても、茶室を聖域とする工夫が求められる(林田力「茶室における露地の効用」PJニュース2010年10月4日)。


『ミラー衛星衝突』上巻、身体的ハンディのある主人公


ロイス・マクマスター・ビジョルド著、小木曽絢子訳『ミラー衛星衝突』はSF作品である。マイルズ・ヴォルコシガンを主人公にしたスペースオペラの一作品である。バラヤー帝国の植民地となった惑星コマールでミラー衛星に貨物船が衝突し、七個の衛星のうち三つを破壊した。事故かテロか、テロであるとしたら目的は何か。真相を調査するために皇帝直属聴聞卿が派遣される。

人類が地球以外の惑星に居住し、恒星間の旅行ができるほどの技術のある世界であるが、テクノロジーは完璧ではない。それがSF作品でありながら、物語を人間的にしている。惑星コマールの大気は人間の生存に適しておらず、住民はドームの中で生活している。酸素を放出する植物を増やすなど、人間が生存できる環境にするための地球化事業が数世紀前から進められているが、数世紀後になっても完了するか分からないという途方もない事業である。

ミラー衛星は太陽光を補い、惑星に光と熱を与えるために建造されたものである。これは数世紀前に建造されたものであり、再建は容易ではない。万里の長城やピラミッド、ローマの水道橋など古代のテクノロジーを連想させる。僅か数十年のスパンでスクラップ・アンド・ビルドを繰り返す現代日本の建築の貧しさを実感する。

物語の舞台となる社会は皇帝が支配する帝国である。ヴォルと呼ばれる貴族階級には男尊女卑や遺伝的疾患への差別・偏見という前近代的思想が根強い。物語のヒーローのマイルズ・ヴェルコガシンは名門貴族の跡取り息子ではあるが、身体的なハンディキャップを抱えている。周期的に発作が起きるという不治の症状も抱えている。一般的なヒーロー像とは異なるユニークな設定である。

この作品では視点人物となっているエカテリン・ヴォルソワソンは「妻は夫に忠誠を尽くす」という封建的な道徳観念に縛られて苦しんでいる。現代の進歩的な女性ならば一笑に付したくなる悩みである。しかし、上巻のラストでは自分の意思で決断する。周囲の人物の助言を受けてではなく、自分で考え抜いて決断するところに近代人の自我の誕生と重ね合わせることができる。

上巻ではミラー衛星衝突事件の真相は一向に解明されないが、下巻に向けて陰謀が顔を見せ始める。コマール人の反乱が仄めかされるが、物語の善悪と読者の価値観にギャップがある。バラヤー人の帝国がコマールを侵略し、征服した。コマールの降伏後にも非武装のコマール人が虐殺されるという蛮行が繰り広げられた。それ故に反乱側に感情移入したくなるが、主人公側が帝国となっている。下巻の展開に注目である。(林田力)


『ミラー衛星衝突』下巻、ニックネームの奥深さ


上巻のラストで陰謀の存在が明らかになるものの、下巻に入ってもアクションやミステリー色以上に生活臭さが濃厚である。マイルズのエカテリンへの恋情がメインである。ミステリーやアクションと恋愛が同時進行する小説は多い。危機に陥った二人が互いに愛情を抱くという展開が定番である。

しかし、『ミラー衛星衝突』の二人は下巻の中盤までは陰謀への危機感を共有していない。陰謀と恋物語は全く別次元の話であり、陰謀への緊張感を削ぐものになっている。しかも、二人の関係には具体的な進展はない。マイルズの心の中の思いが大半でロマンスからは程遠い。ヒロインがアクションを担当し、ヒーローの見せ場が説得交渉となっている点で女流作家らしい政治的な正しさがある。

生活臭さは恋愛だけではない。故郷の惑星から持ってきて壊された鉢植えに対してマイルズは感傷的になる(81頁)。それはSF作品である必然性がないほど、普遍性のある心理描写である。SFであっても未来技術を描くことが目的ではなく、小説は人間を描くものであると再認識させられた。

『ミラー衛星衝突』は洋書の翻訳作品である。現在の国境や民族とは別次元を舞台としたSF作品であっても、作者の頭の中で作られた作品である以上、作者が生活する分化とは無縁ではない。日本人にとっては異文化体験が可能である。

『ミラー衛星衝突』に登場する欧米文化としてファーストネームを短縮してニックネームで呼ぶ風習がある。たとえば、エカテリンとエティエンヌの夫婦は互いをカット、ティエンと呼び合っている。その息子ニコライはニッキと呼ばれる。

一般にニックネームで呼ぶことは親しみを込めたものと解説されるが、その距離感が非ネイティブには難しい。親しくない人間が勝手に名前を短縮して呼べば侮蔑になる。本人は「親しみを込める意図であった」と言い訳することは無意味である。分かりやすい例を挙げれば日本人を意味するジャパニーズJapaneseをジャップに短縮すれば蔑称である。

『ミラー衛星衝突』では夫が妻を短縮した愛称で呼ぶことについて、妻に好意を寄せる主人公が妻を大切にしていない現れと受け止める。相手を愛しているならば相手の名前を正確に発声し、その語感を味わうべきという発想である。欧米諸国におけるニックネームの奥深さを実感した。(林田力)


『圓さん、天下を回る』ショッピングセンターによる買い物難民


升本九八『圓さん、天下を回る』は、お金に触れると、その使われ方が分かるという超能力(エコパー)を持った女性・宇倍圓(まどか)を主人公とした娯楽経済小説である。「ゴールデン・エレファント賞」第1回審査員特別賞を受賞した。

舞台は現代に近い近未来の日本である。経済は疲弊し、膨大な国債によって日本政府はデフォルト寸前である。街には失業者があふれ、暴動に近いデモも頻発している。主人公も企業買収でリストラされて無職という格差社会の犠牲者である。政府は国民の生活を守るためではなく、デフォルトを避けるために国民に隠れて陰謀を企んでいる。まさに悲観的であるが、リアリティのある未来予測になっている。

本書は軽い気持ちで読める小説であるが、登場人物の会話や思考を通して経済理論が展開される。その点で『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』や『女子大生会計士の事件簿』と似たような味わいがある。しかし、これらの書籍の魅力は難しい理論を分かりやすく解説することであった。

これに対して『圓さん、天下を回る』の魅力は現代の金融資本主義の矛盾に対する解決策を提示しようとしているところにある。利子による搾取と支配、それに対抗する価値として自由貨幣(時間の経過とともに減価する貨幣)という大きな問題を扱う。その一方でショッピングセンター進出による地域商店街の荒廃というローカルな話題もある。

地元商店街の荒廃は以下のように多くの書籍で言及される話題である。「ランチタイムなのに、半分の店のシャッターが下りている。開いている残りの半分のうち、そのまた半分はコンビニだったりファミレスだったりして、昔からの商店はほとんど見ない。これも時代の流れなのか。日本中の地方都市が、同じ顔つきになって老いさらばえているのだと思うと、持っていき場のない怒りに駆られる。」(海堂尊『夢見る黄金地球儀』東京創元社、167頁)

『圓さん、天下を回る』では一歩進めて買い物難民という深刻な問題を投げかける。ショッピングセンター出店の問題は第一次的には大企業と自営業者の利害対立であるが、地元商店街が潰れることにより、高齢者や低所得者を中心に買い物難民が生み出される。

しかも、効率的な企業が非効率な企業を淘汰することで市場が発展するというような新自由主義的な楽観論は該当しない。ショッピングセンターは商店街を潰した後で採算が合わなければ無責任にも撤退し、後には何の店舗もない不毛の地と買い物難民だけが残るという展開が待っている(150頁)。

こここからは住民反対運動が起きている再開発・二子玉川ライズを想起した。再開発によってショッピングセンターやショッピングモールができたが、周辺住民が買い物したい店がないことが問題になっている。これまで反対運動は再開発が経済的に成り立たず、再開発推進企業にとっても重荷になる危険性を指摘してきた(林田力『二子玉川ライズ反対運動』マイブックル、160頁)。しかし、「儲けている奴は吸い上げるだけ吸い上げたら撤退する」(199頁)という指摘から深刻さを実感する。

『圓さん、天下を回る』は脇役も個性的である。「自分の再就職がうまくいかない原因が、秘密結社の陰謀ではないかと本気で思うようになった」(186頁)という活動家は現実の陰謀論者の心理を表している。

特に準主役とも言うべき天才小学生の天才小学生・神山厘太郎は魅力的である。合理的な経済人であった厘太郎は次第に感情を重視するようになっていく。自由放任の推奨者と位置付けられるアダム・スミスに弱者保護の倫理を見出し、福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず」から格差が固定化する格差社会を批判する(250頁)。

圧巻は「理由なくアイスを買って帰りたいと思う家がなければ、真に経済は動かない」との台詞である(290頁)。主人公とのエピソードに基づく発言であるが、分譲マンション購入の住宅ローンで破綻して自殺した両親を持つ厘太郎の生い立ちと重ねると深みが増す。住まいは人権であり、生活の基礎である。その分野が資本主義の利潤追求に走っていることが問題と実感した。(林田力)


『ネットと愛国』ネット右翼の矛先は正しいか


安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(講談社)は在特会(在日特権を許さない会)のルポタージュである。在特会のメンバーに取材し、在特会に参加した動機や在特会の何に魅せられたのかを明らかにする。

『ネットと愛国』では在特会のメンバーを黒塗りの街宣車で騒ぎ立てる従来型の右翼と区別する。「大人しい、ごく普通の、イマドキの若者」を中心とする新しい形の右翼運動と位置付ける。

若年層中心という視点は正しいものの、「大人しい、ごく普通の、イマドキの若者」という形容については同意できない人もいるだろう。在特会の暴力的な抗議行動による被害者が存在する。その活動は日教組などの左派系団体の集会を妨害する伝統的な右翼と変わらない。

人種差別主義者が家庭では良き父親、コミュニティでは良き隣人である例は別に珍しくない。普通そうに見えることは評価尺度として重要ではない。『ネットと愛国』も普通の若者であることを積極的に評価するのではなく、そこから日本社会の闇の深さを浮き彫りにする。

若年層が右傾化した原因として、格差拡大など日本社会の矛盾がある。ネットカフェ難民や内定取り消し、ニート、派遣切り、ワーキングプアなど矛盾を背負わされた若年層が社会に疑問を抱き、政治意識を高めることは当然である。

しかし、その怒りを在日コリアンや労働組合・左派市民運動に向けることが正しいかは疑問である。日本社会の矛盾は少数派の反日売国勢力が社会を歪めているために生まれたものだろうか。むしろ体制側が矛盾を構造的に作り出しているのではないだろうか。

私は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされた経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。それ故に虐げられた人々の社会への怒りは大いに共感できる。

一方で東急不動産だまし売り裁判では怒りの矛先を正しい相手に向けることの難しさも実感した。マンション住民同士の対立、管理会社に抱き込められた管理組合役員、地上げブローカーの暗躍など、だまし売り被害者を消耗させ、結果的に東急不動産への責任追及を鈍らせかねない出来事にも遭遇した。

ネット右翼と呼ばれる人々も社会の矛盾によって傷つけられた自尊心を民族的自尊心で穴埋めすることが正しい解決策であるか、それこそが矛盾を作り出す体制の思う壺ではないか、考える必要があるだろう。




『銀河英雄伝説外伝5 黄金の翼』ラインハルトの原点


田中芳樹『銀河英雄伝説外伝5 黄金の翼』はスペースオペラ『銀河英雄伝説』(銀英伝)の外伝となる短編集である。銀河系宇宙を舞台に、銀河帝国と自由惑星同盟の間で繰り広げられる英雄達の群像劇を壮大なスケールで描く。

「ダゴン星域会戦記」は銀河帝国と自由惑星同盟とがはじめて接触し、長きにわたる抗争の幕開けとなった戦いを描く。自由惑星同盟の古き良き時代を飾った英雄達が活躍する。他の短編「白銀の谷」「黄金の翼」「朝の夢、夜の歌」「汚名」はラインハルトと親友キルヒアイスの少年期の物語である。腐敗した貴族制度を一掃し、アンネローゼを皇帝から取り戻すという二人の原点が描かれる。

表題作「黄金の翼」は第五次イゼルローン攻防戦を描く。十六歳の若さで駆逐艦の艦長となったラインハルトはイゼルローンに配属される。軍隊内ではイジメが横行するが、それを返り討ちにするラインハルトとキルヒアイスが清々しい。現実は自衛隊のイジメ自殺のように救いがないが、それ故にこそフィクションとして爽快感がある。

後に大艦隊を指揮するラインハルトも「黄金の翼」では駆逐艦一隻を指揮するだけであるが、そこでも非凡さを発揮する。兵士としても戦術家としても戦略家としても有能である。「戦艦を撃墜してみろ」と挑発する憲兵に対し、駆逐艦で戦艦を撃墜できるわけがないと前線の将兵の立場から嘲笑する。そこには「挑戦してもいないのに無理というな」的な愚かなガンバリズムの出てくる余地はない。(林田力)


『小説 平清盛』前向きな清盛像


高橋直樹『小説 平清盛』(潮出版社、2011年)は日本初の武家政権を打ち立てた平清盛の半生を描く歴史小説である。平清盛は、保元・平治の乱での目覚ましい勲功により、太政大臣という最高の位に昇った。同時に一族の多くの者たちも高位高官に就き、栄華を誇った。しかし、その栄華も長くは続かず、「驕る平家は久しからず」となった。

平家滅亡という結果から平家は失敗者として分析されることが多い。これに対して『小説 平清盛』では最善の選択をした人物として清盛を描いている。そのために主人公として清々しい。一般に平氏は公家化して弱体化したと位置付けられる。本書では平治の乱で勝者になった清盛が武士の限界を悟り、積極的に平家の公卿化を推進する。また、平氏政権末期の汚点とされることもある南都焼き討ちも、清盛の反乱鎮圧への強い決意の現れと描く。

『小説 平清盛』は脇役達も魅力的である。『平家物語』では良識派に描かれた長男の平重盛は武士の存在意義を主張する人物となっている。殿下乗合事件での藤原基房の従者への乱暴は重盛が主導したものと描かれた。これは恥辱を与えられたことへの復讐という武家の習わしを優先させ、公家化する平家にあって武士としての存在理由を主張するものであった。

「平家に非ずんば人にあらず」の言葉で知られ、おごる平家の代表格と見られる清盛の義弟・平忠時は縁の下の力持ち的な参謀と描かれる。源氏の棟梁・源義朝は前半のライバルである。父子や兄弟間の骨肉の争いを特徴づける。後に鎌倉幕府を開くことになる源頼朝は兄弟への冷酷さで有名である。それは頼朝個人の性格というよりも源氏の伝統であることが分かる。(林田力)




『いまから、君が社長をしなさい。』本当の優良企業


鳥原隆志『いまから、君が社長をしなさい。』(大和書房)は、具体的な企業の社長になったと想定して課題を解決するインバスケットというゲームを行うビジネス書である。社長の仕事というものは一般にはなじみなく、社長に縁のない多くの人にとって具体的に考えにくいものである。それ故にインバスケットは有効な体験になる。

社長の仕事となるとビジネス戦略の立案というような大きな仕事を思い浮かべるが、『いまから、君が社長をしなさい。』で最初に登場した案件は、社長が信号無視していたという告発めいた書き込みである。これによって社長が細かなところにも注意しなければならない存在であると気付かされる。

危機管理についての案件もある。異物混入が放置されていたとの問題である。実際にも食品の回収騒ぎは多い。雪印食中毒事件のように対応の遅れが致命傷になった事案もある。

インバスケットでは専務からは回収すると費用が大きくなるために、クレームが発生した時点で個別に対応すればいいとの提案がなされた。既に複数の顧客から異物混入のクレームを受けている段階で、このような提案がなされることに呆れた。悪い例として提示されたものであるが、企業の常識は市民の常識から乖離していることを再認識した。

本書では個性の異なる四人の登場人物が回答に取り組む。その中の大友という人物は「従業員は社長に従え」という古い考えの持ち主で、ダメ回答を連発する役回りである。しかし、異物混入の案件では「以前に分かっていたことをいまになって報告するのか」と激怒し、「広告を打ってでも全て回収しろ」と指示する。他の回答者が主力商品の回収に及び腰の中で思い切った支持である。この一点では大友に魅力を感じた。多面的に人間を評価することの大切さを再確認した。

この問題について、「本当の優良企業は、テレビCMなどで良いイメージを上塗りしている企業ではなく、このような不祥事やトラブルが発生したときに適切かつ迅速に対応できる企業なのです」とまとめられている(134頁)。このCMと対比した説明は的を射ている。

林田力は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされた。だまし売りの発覚後の東急の対応も不誠実であったため、裁判で売買代金を取り戻した(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社)。

その当時、東急は自社の誠実さをアピールするCMを流しており、その虚飾ぶりに怒りを強めた記憶がある。CM内容は東急リバブルの実態を糊塗するものであった。一生に一度あるかないかの買い物で騙し売りされた被害者感情を逆なでした。CMでは以下の三種類を流している。

教えてくれた編「物件のいいところを教えてくれた。悪いところも教えてくれた。買おうと決めることができた」

希望の暮らし編「不動産屋さんに希望の沿線じゃなく、希望の暮らし方を聞かれたのは初めてだ」

もう一度編「気に入って決めようとしたら、『雨の日にもう一度みてから決めてください』と言われた」

東急リバブルの実態が広まりつつある現状を恐れ、過度に信頼を強調する宣伝広告に必死になっていることがうかがえる。消費者が誤解を招くことがないようにするため、東急リバブルの実態を正しく反映したコピーに変更すべきである。真実は「物件のいいところだけを教えられた。悪いところはとぼけてごまかされた。買おうと決めさせようと必死だった」ではないか。それ故に本書のまとめは納得できる。


『欲情の作法』男女の差異を強調


渡辺淳一『欲情の作法』は『失楽園』など恋愛小説で名高い著者による実践的な恋愛の入門書である。冒頭から「男とは」「女とは」と性別ステレオタイプな見解が目白押しである。本書の男性論女性論は生物学的な差異を出発点にしているものの、ジェンダーに否定的な立場からは受け入れがたい面もある。

人間には十人十色の個性がある。それ故に「男とは」「女とは」と個性を無視してステレオタイプな見解を当てはめることは正しくない。一方で人間を個人としてではなく、集団として社会学的に分析する場合、グルーピングしてグループに属性を付すことは有効である。ここが人文科学と社会科学のアプローチの差異である。

問題はグルーピングが適切かという点である。男性と女性の分類では人類を二分割しただけである。血液型占いよりも大ざっぱな分類である。一方で恋愛において男と女は重要なアクターであり、男性論女性論も一定の意味がある。

但し、著者は恋愛小説で多くの読者を感動させてきた作家である。不倫のような反倫理的な恋愛も感動的に描いてきた。それが感動的である理由は登場人物の個性が表出された言動だからである。「男は浮気する生き物」とまとめられると感動が色あせてしまう。そこは医者でもある著者であり、人間に対する覚めた視点も同居している。

この種の二面性は林田力にも思い当たる。林田力は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされ、裁判で売買代金を取り戻した経緯を『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』(ロゴス社)にまとめた。当然のことながら、「不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りした東急不動産はけしからん」という思いがあった。一方で問題物件を売り逃げして利益を上げる悪徳不動産業者の行動原理を理解するという覚めた気持ちもあり、文章をまとめることに苦労した。

本書はタイトル『欲情の作法』からしてセンセーショナルであるが、含蓄ある社会批評も存在する。たとえば「『美しい』というのは、かつて安倍元総理が唱えた『美しい国』という言葉が無意味であったように、あまり個性的とはいいかねます」とある(62頁)。林田力も東急グループの標語「美しい時代へ」の無意味さを実感しているため、納得できる内容である。

本書はステレオタイプな男性論女性論になっているが、現実社会では若年層が草食男子になっていると指摘されることがある。そのような傾向に対する高齢世代の著者なりの問題提起と読むこともできる。もっとも、本書は「最近の若い者は」的な説教臭さとは無縁である。読了後に読者が元気になるような書き方になっている。説得の話運びの巧みさを実感した。(林田力)


裁判


江川達也氏が相続裁判で兄に勝訴


漫画家の江川達也氏が兄を訴えた相続裁判で勝訴した。名古屋地裁(倉田慎也裁判官)は2012年2月29日付で兄に約2370万円を支払うよう命じた。江川氏は1999年に死去した父親の遺産相続分を受け取っていないとして、兄(52)を相手に遺産の返還を求めていた。

判決では兄が得ていた愛知県弥富市にある不動産の賃料収入と、兄が引き出した父親の預貯金の合計額の2分の1(約2910万円)を江川さんの相続分と認定し、葬儀費用などの控除を求めた兄側の主張の大半を退けた。

江川氏は2人兄弟で、母親は父親が亡くなる8年前の91年に死去していた。名古屋家裁での遺産分割調停で解決のめどが立たず、2009年5月に江川氏が提訴していた(「漫画家江川達也さん勝訴=遺産相続めぐり兄に―名古屋地裁」時事通信2012年3月2日)。江川氏は『まじかるタルるートくん』や『東京大学物語』『日露戦争物語』などの作品で知られる。


群馬県警の裏金告発・大河原宗平氏控訴審裁判


警察官の大河原宗平氏は群馬県警の裏金を内部告発したところ、私生活の監視を受け続け、冤罪で逮捕され、懲戒免職になった。これに対し、大河原氏は冤罪で逮捕されたことによる損害賠償や免職・懲戒処分の取消を求めて提訴した。二つの裁判の控訴審は東京高裁に係属している。第1回口頭弁論は共に2011年9月20日に開かれた。損害賠償請求事件が13時15分から824号法廷で、免職・懲戒処分取消請求事件が14時から809号法廷である。

2012年3月19日14時から824号法廷で新たな口頭弁論が開かれる。大河原氏が逮捕された時に県警が撮影したビデオ映像が裁判所に提出されたが、そのテープは県警側に都合の悪い場面がカットされていたことが支援者の分析から判明したという。

証拠隠しや証拠の捏造は冤罪の温床である。警察や検察の捜査は税金を使って行われるものであり、収集された証拠は両当事者がアクセスできなければアンフェアである。都合の悪い証拠を「不見当」の一言で済まされる実態が証拠の捏造を可能にしている。


小沢一郎無罪判決で「コンクリから人へ」の復活を期待


政治資金規正法違反(収支報告書の虚偽記載)に問われた民主党の小沢一郎元代表に対し、東京地方裁判所は4月26日、無罪判決を言い渡した。小沢氏の復権で民主党政権のマニフェスト「コンクリートから人へ」の復活を期待する。

2009年の民主党の政権取得時、民主党の掲げた「コンクリートから人へ」に多くの期待が寄せられたものの、看板倒れに終わったことは周知の通り。野田総理官邸ブログ「官邸かわら版」には「『人の命を守るためのコンクリート』には思い切った手当をしています」とマニフェストをコケにした発言まで飛び出した(「予算執行という責任の重さ」2012年4月6日)。

民主党マニフェストの後退から、「民主党に期待したことが誤りである」と結論づけることはナイーブである。マニフェストの後退は小沢一郎の政権中枢からの排除と軌を一にしてなされた。それ故に小沢一郎の復権に期待することは理にかなう。より重要な点は「コンクリートから人へ」の思想的な革新性である。このスローガンには近代日本の悪弊である土建政治を全否定する意味が込められている。

これは民主党の改革を中途半端・改悪と批判する革新政党であっても主張することは容易ではない。何故ならば革新政党もデベロッパーやゼネコンの労働組合や、中小建設業者の団体を支持基盤とするためである。開発優先の土建政治の成れの果てと住民から批判される二子玉川再開発(街の名称:二子玉川ライズ)が大場革新区政の時に計画が誕生したことを忘れてはならない。

この思想的な徹底さは小沢氏の支持層の拡大に寄与している。非武装や天皇制廃止など小沢氏本人とは相容れようもない思想の持ち主が小沢氏を熱烈に支持することも説明できる。「国民生活や第一」や「コンクリートから人へ」の思想に体制内批判派的な革新政党には存在しない可能性を見出している。

そして、そのような人々が小沢氏を支持することも小沢氏に期待する一要素である。無罪になったとはいえ、無罪になったとはいえ、小沢氏が建設業界と関わりの深いことは否めない。どこまで小沢氏が「コンクリートから人へ」に本気であるか冷笑的な見方も存在する。

それでも小沢氏以上に過激な人々が小沢氏を熱烈に支持しているという事実が重要である。政治家は支持者に応えるものだからである。小沢一郎無罪による政治のダイナミズムに大いに期待する。


証拠提出権


証拠提出権(証明権)は裁判を受ける権利(日本国憲法第32条)の一内容であり、証拠における当事者権に含まれるものである。それが保障されるためには裁判官の証拠決定の合理性が保障されなければならない。

要証事実の証明に不可欠な証拠の採用申し立てを却下することや、この種の証拠提出を釈明で促すことを懈怠した場合は証拠提出権の侵害になる。これは法令違背として上告理由にもなる(石川明「証拠に関する当事者権 証拠へのアクセス」『講座民事訴訟5』5頁)。

また、要証事実の証明に不可欠な証拠を調べなかった結果、審理不尽になり、それによって結論に影響を及ぼす法令違反が生じる(最高裁平成20年11月7日判決・判例時報2031号14頁)。

証拠の申請が反証である場合には、仮に裁判所の既成の心証が既に核心に達していたとしても証拠調べをしなければならない(中務俊昌「『唯一の証拠方法』と民事訴訟における証拠調の範囲」法学論叢60巻1・2号216頁)。他の証拠を取り調べないまま、既成の心証は覆るはずがないと考えることは予断(証拠価値の先取り)であって、重大な手続き上の瑕疵になる。

唯一の証拠方法の却下は違法である(大審院判決明治28年7月5日民録1−57、大審院判決明治29年11月20日民録2−112、大審院判決明治31年2月24日民録4−48、最高裁判決昭和53年3月23日判例時報885号118頁)。唯一の証拠方法はある争点に関し、唯一申し出られた証拠のことである。裁判所は証拠申出に応じて証拠調べを実際に行うかどうか判断するが、唯一の証拠方法を却下し、証拠調べをせずに 弁論の全趣旨のみを証拠資料として判断を下すことは認められない。

鑑定や検証を「唯一の証拠方法の却下は違法」の例外とした例がある。しかし、「当該証拠が事実認定を覆す決定的な証拠となる場合もありうるのであり、一概に調べなくてもよいということにはならない。」(民事訴訟法研究会「民集未搭載最高裁民訴事例研究28」法学研究84巻11号77頁)


コラム


日本はインフラ輸出に注力すべきか


かつて「Made in Japan」が品質と価格で世界を席巻したが、今や日本の製造業は円高に加えて新興国の台頭という課題を抱えている。日本が得意とした車や家電について日本の競争力は落ちている。韓国の家電メーカーのサムソンや自動車メーカーのヒュンダイなど、コストだけでなく品質やブランド力でも日本企業は追い詰められている。

このために日本が次の得意分野にシフトしなければならないと考えることは正当な問題意識である。その一つとして日本の製造業は消費財からインフラ輸出にシフトすべきとの意見がある。既に「スマートシティ」はビジネスのキーワードとなっている。また、福島第一原発事故で二転三転している原発輸出も産業政策としてはインフラ輸出の文脈で語られる。

問題はインフラ輸出が日本の強みを活かせるかである。消費財とインフラには決定的な差異がある。消費財の需要者は多数の消費者であるが、インフラの需要者は政府や地方公共団体などの公的組織に限定される。消費者には品質と価格でMade in Japanが評価されたが、外国の公的機関に売り込むとなると政治力も関係する。ここでは官民共同型のセールスが必要になる。

この政治的なゴリ押しという点では日本は下手である。むしろ米国によって日本国内のインフラ整備の一定割合を米国企業から調達させることをゴリ押しされる側であろう。実際、日米構造協議においては人工衛星や大型コンピュータ、医療技術などの米国企業からの調達を要求された。TPPでも公共事業の地元企業優遇発注の禁止や入札仕様書の英語表記など米国企業が参入しやすくする要求がなされると推測される。

そもそも、日本が国際的な政治的ゴリ押し能力を高めることは日本国民にとって好ましいことでもない。典型例は紐付き政府開発援助(ODA)である。日本企業の受注を条件として援助を行うことである。これは国内の公共事業にも見られる建設会社と政治家、官僚の癒着を拡大させることになる。

すでに日本の雇用の中心は輸出向けの製造業ではなく、国内向けのサービス業である。この点で輸出依存度の高い韓国とは状況が異なる。古くから内需拡大が経済成長の処方箋として指摘された通り、国内で循環させることを志向するべきである。


林田小学校で文章力指導


兵庫県姫路市林田町六九谷の林田小学校で文章力指導が行われている。毎日15分を漢字の書き取りなどに使い、コンクールにも応募する。表現力を養うため、俳句や短歌づくりにも取り組む(「「文章力」指導、成果続々 姫路・林田小学校」神戸新聞2012年2月29日)。

活字離れによる書く力の低下を受けてのものである。IT技術は文章を書く機会を増やす面があるものの、携帯メール依存症のような弊害もある。携帯メール依存は文章力の面でも問題がある。携帯メール依存によって、パソコンのメールなど携帯メール以外の場面でも携帯メールの感覚でしか文章を書けなくなり、まともなコミュニケーションができなくなるという弊害がある。


言葉をつぶす人と言葉をつくる人


言葉をつぶす人と言葉をつくる人を対比させて論じることに違和感を覚えました。言葉をつぶす人がつぶそうとする言葉と、言葉をつくる人がつくろうとする言葉は全く別種別物です。それを同じ「言葉」という言葉で表現して、「つぶす」というネガティブな表現と「つくる」というポジティブな表現を並べています。非常に巧みなレトリックです。

言葉をつくる人に価値を見出すことは一つの考えとして理解できます。もし、言葉をつぶす人に関する問題提起とは別の文脈で、言葉をつくる人の価値が論じられたならば、それなりの共感は得られるでしょう。しかし、差別語などの言葉をなくすことに一定の価値を見出す人々に対して、「言葉をつくる方に価値がある」と主張されても、共感は得られません。

言葉をつぶす人に問題があると考えるならば、言葉をつぶすこと自体を批判すべきです。その批判に対しては言葉をつぶすことに価値を見出している側からは再反論がなされるでしょう。この結果、言葉をつぶす人に対してのみ反応が生じることは至極自然です。

言葉をつぶすことに価値があるか否かと、特定の言葉や表現を潰すことが政治的に正しいことになるかは別次元の問題です。最近では特定人を「さすが」と称賛することが危険と問題提起され、それに対して多数の批判が寄せられました。管見も批判に同意します。

自分や自分の知っている運動と同じ次元に落とすことで平等を実現しようという低レベルの悪平等主義(実は自分が認められたいという裏返し)は有害です。つぶす必要のない言葉や表現をつぶそうとする主張は、それ故に批判されるものです。これは言葉をつぶすことの価値とは別次元です。

但し、言葉をつぶす活動には、つぶす必要のない言葉をつぶそうとする冤罪が起こり得るものです。その強い自覚が言葉をつぶす側には求められます。これは重く受け止めなければならないものです。一方で「さすが」と称賛することを危険視した人物が日頃からPCに熱心という訳でもなく、つぶす必要のない言葉をつぶす冤罪の危険性は言葉をつぶす活動への熱心さと比例するものでもありません。


超高層マンションと国際金融資本の陰謀論


東京では雨後の竹の子のように超高層マンションが建設されている。東京都世田谷区の「二子玉川ライズ タワー&レジデンス」のように竣工から2年が近づいても完売しない負け組マンションもあるものの、都心部の超高層マンション分譲の勢いは変わらない。陰謀論の立場から分析すると、ユダヤ系国際金融資本家の移住先という発想も生じてくる。

超高層マンションは新自由主義的な構造改革路線の帰結である。容積率の緩和や総合設計制度、民間建築確認検査機関など建築不動産分野の規制緩和によって超高層マンション建設が可能になった。日本政府の新自由主義的経済政策の推進者がウォール街の代理人という視点に立つならば、超高層マンション建設ラッシュは国際金融資本家の狙い通りとなる。

問題は誰が1億円を超える超高層マンションを購入するかということである。三人に一人が非正規労働者という格差社会の日本で分譲マンション需要は確実に減少している。超高層マンションの高層階を購入できる資力があれば戸建て住宅を購入できる。これは国際金融資本家、米イスラエルの金持ち層の住居と考えれば説明が可能である。

「アメリカ人(ユダヤ系)のお金持ちが日本に逃げている」との噂がある(真相ジャパン第68号「編集後記」)。これも陰謀論から説明可能である。米国は衰退期に入っている。米国を牛耳る金融資本家達はヨーロッパから移ってきた人々である。米国を食べ散らかした後で西へ進み、太平洋を渡った先に拠点を移すことは不思議ではない。

金融資本家の新たな拠点として日本が選択されることには歴史的な理由がある。それは中国へのアクセスである。ヨーロッパ人にとって中国は古代より富の場所であった。田中芳樹『創竜伝』のように古代中国の殷周革命で敗北し、追放された側が西洋世界をつくったという発想もある。

帝国主義の時代に入ると中国も植民地化の対象になったが、中国の独自性の強さからアフリカやインドのような直接的な支配は困難とされた。漢民族は過去に何度も遊牧騎馬民族の支配を受けたが、政治制度や文化面では基本的に征服者を圧倒していた歴史を持つ。

そこで目を付けられた国が日本である。陰謀論の立場では明治維新は国際金融資本家の陰謀である。中国を金融資本主義に組み込むための尖兵として日本が近代化された(ベンジャミン・フルフォード『世界と日本の絶対支配者ルシフェリアン』講談社、2008年)。日本の帝国主義的暴走と冷戦による中国封じ込めによって中国の組み込みは後回しにされたが、近年急速に資本主義化していることは周知の通りである。ここでも日本は中国市場のドアノッカーの役割を果たした。天安門事件による中国の孤立解消の突破口が天皇の訪中であった。

さらにイスラエルの問題がある。軍事的にはパレスチナや周辺アラブ諸国を圧倒しているように見えるイスラエルであるが、長期スパンで見れば日中戦争時の日本のように中東から駆逐される可能性は否定できない。

イスラエルの優位性はアメリカ政府の軍事援助やアメリカ企業の経済投資で成り立っている。それ故にアメリカの衰退はイスラエルの存亡に直結する。イスラエルの将来に疑問を抱くイスラエル在住の富裕層が移住先を求めることは合理的である。ユダヤ人の避難先として日本が選ばれることも陰謀論の立場に立てば日ユ同祖論から説明できる。

一方でイスラエル滅亡後のユダヤ人を受け入れる先進国には日本くらいしかないという現実もある。ヨーロッパではイスラエルのパレスチナへの蛮行は大きな問題意識を持って受け止められている。アパルトヘイトになぞらえて批判されている。自国を訪問しようとするイスラエルの要人を市民団体が戦争犯罪者や人道犯罪者として告発する動きもある。パレスチナ弾圧の戦争犯罪者の安住の地は人権意識の低い日本くらいになる。

日本に移住する国際金融資本家の住居を考えるならば都市部の超高層マンションが最適である。超高層マンションの立地エリアとして湾岸の埋立地が好まれることも、国際金融資本家をターゲットとすれば説明しやすい。米国が先住民族、イスラエルがパレスチナ人を存在しないものとして建国したように歴史的背景のない埋立地の方が好都合だからである。

東日本大震災で被害が生じた液状化は土地造成の問題であり、コストをかければ回避できる(林田力「東日本大震災の液状化被害は土地造成の問題」PJニュース2011年5月24日)。反対に地震被害では立川断層による東京西部の危険性が注目されている。

陰謀論の立場から日本の政治経済の中枢はウォール街の利益を代弁する新自由主義勢力に乗っ取られたと言われて久しい。人的構成の面でもウォール街化が水面下で進行している可能性がある。超高層マンション建設は、地上げによって住民を追い出し、周辺住民には日照被害・風害・電波障害などの住環境破壊をもたらし、地域コミュニティを破壊する。陰謀論の立場では国土を売り渡しているという視点を加えることもできる。(林田力)


ワタミ女性社員過労自殺と隠蔽体質


ワタミフードサービスの労務管理が批判されている。大手居酒屋チェーン「和民」で働いていた26歳の女性社員が入社後僅か2か月で過労自殺している。女性社員は神奈川県横須賀市にある店に勤めていた。被害者の手帳には「体が痛い」「どうか助けて下さい」と心身の不調を訴えていた。神奈川労災補償保険審査官は労災適用を認めると決定し、2012年2月に報道された。

これに対するワタミの渡邉美樹会長のツイッター発言が火に油を注いでいる。渡邉会長はバングラデシュの学校建設について「亡くなった彼女も期待してくれていると信じています」と発言し、大きく批判された。東急不動産だまし売り裁判における東急不動産の遅すぎた「お詫び」と同様の無神経さである(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、98頁)。

佐藤裕一氏の取材によって「生きていられるわけがない」と言える悲惨な労働条件が明らかになった(佐藤裕一「15時間労働で休憩わずか30分! 入社2カ月で過労自殺するワタミ社員のスタンダードな働き方」マイニュースジャパン2012年3月17日)。明治時代の女工のような労働条件である。

「両親が会社に提出させた資料などによると、15時間勤務でも休憩は30分しか予定されておらず、また、休日と睡眠時間を削らせるように組まれた研修など、勤務環境は精神障害の発症後にも、さらに過酷さを増していたことが分かった。」

http://www.mynewsjapan.com/reports/1585

佐藤氏は東急不動産だまし売り裁判も取材している。「知らない」「分からない」でたらい回しにし、担当者を自称する人物が電話にも出ないという東急リバブル・東急不動産の不誠実な実態を明らかにした(佐藤裕一「東急不動産で買ってはいけない 被害者が語る「騙し売り」の手口」マイニュースジャパン2009年9月3日)。

http://www.mynewsjapan.com/reports/1101

ワタミの問題は隠蔽体質という点にも注目すべきである。カリスマ経営者ともてはやされる渡邉氏であるが、雑誌『週刊金曜日』上で痛烈に批判された(村上力「居酒屋ワタミが事故を隠蔽工作」『週刊金曜日』2010年11月5日号)。東京都世田谷区の居酒屋「語らい処 坐・和民」三軒茶屋駅前店では2010年9月に20名の発症者を出すノロウイルス食中毒事故を起こして営業停止処分を受けた。しかし、一時閉店を知らせる店頭の張り紙は「設備改修および店内清掃」を理由とし、食中毒の事実に触れなかった。

記事はワタミの隠蔽工作を批判した上で、従業員に渡辺氏の個人崇拝を行っているなどとワタミの企業体質に踏み込む。渡邉氏は「何があってもウソはつかない。それは利益よりも大切だ」と語っていた(「社長の腐敗 「安易な道」を選ぶから不祥事が起こる」日経ベンチャー2007年12月1日)。そのカリスマ経営者の矛盾を暴露した力作記事である。

記事はカリスマ経営者の率いる企業の隠蔽工作ということで話題になったが、行政処分などの都合の悪い事実を隠す体質は日本企業でありふれたものである。

たとえば賃貸仲介不動産業者・グリーンウッド(グリーンウッド新宿店、吉野敏和代表)の事例がある。グリーンウッドは賃貸借契約書に記載なく退室立会費を受領したなどとして宅地建物取引業法違反で東京都から業務停止処分を受けた(東京都都市整備局「宅地建物取引業者に対する行政処分について」2010年6月8日)。業務停止処分期間中はウェブサイト上での物件紹介も禁止される。ところが「住まいの貧困に取り組むネットワーク」によると、グリーンウッドは自社ウェブに以下の表示をしたという。

「只今 ホームページ調整中です。物件リストを6月19日には掲載いたしますので、今しばらくお待ち下さい。」

これに対して同ネットワークは「ふざけた記載」と怒りを顕わにする(住まいの貧困に取り組むネットワーク ブログ「シンエイエステートとグリーンウッドに対して東京都が行政処分」2010年6月8日)。

http://housingpoor.blog53.fc2.com/blog-entry-106.html

東京都の報道発表資料によると、グリーンウッドは資本金0円で、東証1部のワタミとは比較にならない。それでも行政処分隠しという点で同レベルの活動をしていることは興味深い。ワタミの隠蔽工作をカリスマ経営故の異常性を捉えるならば視点を誤ることになる。

実際、ワタミでは給料未払いなど労働紛争も起きており、ブラック企業とする指摘もある。革新的な経営者というよりも、日本企業の醜い点を巧妙に活用したというイメージが近い(林田力「都知事選出馬の渡辺美樹・ワタミ会長の経営の評価」PJニュース2011年2月21日)。


安易な大学中退者は青山テルマを見習おう


歌手・青山テルマは上智大学を卒業したことを2012年3月26日に自身のブログ「青山テルマのONE WAY」で報告した。着物に袴姿の写真を掲載した上で「この度、私 5年半もかけて、上智大学を卒業しました」と記述する。単位を落としたために5年半がかりの卒業となったという。安易な大学中退者が多い中で立派である。素直に卒業を祝したい。卒業おめでとう。

テルマはトリニダード・トバゴ人と日本人のクォーターである。2008年1月リリースのセカンドシングル『そばにいるね』がヒットし、女子大生歌姫として注目を集めた。これまでも大学生との対談などで「学校に行った方がいい」と話しており、言行一致、主張の一貫性を示した。ブログには以下のように記載する。

「もしそんな私が学校を辞めてしまったら、私が言った言葉がすべて嘘になってしまうのと同時に、これから私が歌ったり、発信する『言葉』が軽く聞こえてしまう。それが一番嫌だった。それが一番ダサイと思ったの」

何年かかったとしても卒業することは立派である。中退で偉そうにしている人間もいるが、テルマの姿勢を見習ってほしいものである。

大学入学者には卒業することが当然のこととして期待される。その当たり前のことができずに現実から逃げ出す安易な中退者が多い。安易な理由による中退は経済的事情で進学を断念した学生や中退せざるを得ない学生らに失礼である。高等教育という希少なリソースの無駄遣いになる。親に学費を払ってもらいながら学校に行かず、アルバイトをしても服や遊びのためにしか使わなかった中退者は最低である。

大学は入学も容易ではないが、卒業も困難である。難関大学ほど単位認定も厳しく、卒業も難関である。合格時や入学時ばかり話題になるが、卒業して初めて賞賛に値する。たとえ偶然やラッキーや裏口で入学できたとしても、大学のレベルについていくことは難しい。大学での学問は高校までの勉強とは質的に異なる(林田力「大卒から感じた高卒のギャップ」PJニュース2010年11月23日)。ただ単に単語や用語や慣用句などを丸暗記すればいい成績がとれるというものではなく、もっと別次元の高度な知的作業である。大学生に相応しい学力と知識がなければ、たいがいの学生は入学早々に落伍する。

http://www.pjnews.net/news/794/20101122_7

卒業したとしていないでは大違いである。最終学歴に「○○大学中退」と書き、大学中退を高卒よりも立派な肩書と勘違いしている愚か者も多いが、実態は正反対である。中退は大学受験で不合格になることよりも恥ずかしい。受験の不合格は履歴書に書かれないが、中退は、その後の人生にも付きまとう。逃げ出した後悔を抱えて生きていかなければならない。

後で「卒業しておけばよかった」と後悔するよりも、何年かけても大学は卒業した方がいい。その方が悔いは残らない。人生の中で学生生活の時間を長く取れることは見方によっては幸せである。卒業までに身に着けた知識や考え方は将来様々な場面で役に立つことになる。「大学の勉強なんて社会に出たら使えない」などと嘯く中退者もいるが、勉強は知識を得るだけでない。脳を活性化させ、記憶力を高めて頭の回転を良くするという効果も期待できる。




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アニメ『AKB0048』にみるAKB48の反メジャー性


AKB48を題材にしたテレビアニメ『AKB0048』の主要登場人物の声優が3月2日に発表された。現在のAKB48メンバーの襲名者である11代目板野友美役に植田佳奈、5代目高橋みなみ役に白石涼子、8代目小嶋陽菜役に能登麻美子が起用される。アニメは4月29日に放送開始予定である。

『AKB0048』(エーケービー・ゼロゼロフォーティエイト)は人気アイドルグループAKB48の派生作品であるが、単なるアイドルの人気便乗作品ではない。近未来の宇宙を舞台とするSF作品である。芸能活動が非合法化された世界で、危険を顧みずに違法を覚悟で公演し、ファンに夢と希望を届けるアイドルAKB0048の活躍を描く。

AKB48は今や押しも押されもせぬトップアイドルである。マスメディアの作出するブームに乗っかり、握手権などのシステムはAKB商法と批判・揶揄され、商業主義の権化のように見られている(林田力「AKB48プロジェクト義援金にAKB商法への期待高まる」PJニュース2011年3月18日)。

http://www.pjnews.net/news/794/20110317_4

福島第一原発事故後は脱原発ソング『ダッ!ダッ!脱・原発の歌』を発表して社会的発言を深めるアイドルグループ・制服向上委員会と対比する形で、体制寄りのメジャーな存在としてAKB48が槍玉に挙げられることもある。

しかし、そのようなAKB48理解は一面的である。もともとAKB48は秋葉原というローカル劇場で公演を繰り返していたグループである。マスメディアに露出して売るという商業主義的路線の対極に位置する。そのようなAKB48の反メジャー的な精神を『AKB0048』は設定で巧みに昇華させている。

当然のことながら、『AKB0048』にはAKB48とは異なる設定がある。記事で注目された相違設定の一つに襲名制がある。前田敦子や大島優子のような現在の人気メンバーの名前が歌舞伎役者の名跡のように襲名されている。冒頭の11代目板野友美や8代目小嶋陽菜などである。

AKB48はモーニング娘。と同じくメンバーが入れ替わるユニットと認識されているが、初期メンバーが全員卒業しているモーニング娘。とは異なり、未だ代替わりをしていない。神7に代表される初期メンバーが現在でも人気の中心である。芸能プロダクション的には個人に依存せずに売れる仕組みを作りたいと考えているだろうが、AKB48は個人の才能に依存している。襲名制という考え方はAKB48の人気持続の方向性のヒントになり得る。


『genesis』メタルの枠内で収まらない味わい


『genesis』は嬢メタルバンドとして話題のLIGHT BRINGERのデビュー・アルバムである。シングル曲「noah」などを収録する。メロディーにはポップス色が強く、メタルバンドに抵抗感がある人でも聴きやすい。嬢メタル・シーンを牽引する存在であるが、メタルの枠内で収まらない味わいがある。

作詞はボーカルのFukiが担当する。Fukiは作詞について「学生時代に学んだ小論文の書き方に近い」とインタビューで答えている(浅野智哉「Fuki (LIGHT BRINGER)が語る“ロッカー”として歌い続ける覚悟」クイック・ジャパン第100号、172頁)。意外なところで学校の勉強が役になっている。単に自分ができないから学校教育や学歴を否定するヤンキーや大学中退者とは比較にならない奥深さがある。

同じインタビューでFukiは「酔って暴れて物を壊したりとか、絶対ない」と通俗的なメタルロッカーのイメージと自己を差別化している(173頁)。本当は恥ずかしい属性であるヤンキー風であることをセールスポイントにするような芸能人もいる中で、Fukiの真面目さは注目に値する。(林田力)


『機動戦士ガンダムUC』連邦の腐敗


『機動戦士ガンダムUC』は第二次ネオジオン抗争後の宇宙世紀が舞台である。『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』から3年後の宇宙世紀0096年になる。ネオジオンの残党が抵抗を続けているが、テロリスト扱いである。大国同士の戦争はないものの、テロとの戦争を抱える現代に近似する。

宇宙世紀のガンダムシリーズに共通するが、UCの世界でも地球連邦は腐敗している。連邦上層部はネオジオンを人民の不満をそらす矛先として利用していると仄めかされている。これもアルカイダや911事件に対する陰謀論と重なる。

UCの敵勢力は地球連邦と真っ向から対決するジオン公国やネオジオンではなく、テロリスト扱いのネオジオン残党という点で弱小である。しかし、それを補ってあまりある魅力がUCにある。ラプラスの箱という宇宙世紀成立当初の謎が物語のバックボーンとなっているためである。地球連邦は成立当初から欺瞞を抱えていた。歴史的なスパンがあることで物語が重厚になる。

連邦の腐敗は一年戦争から一貫しているが、アムロ・レイは連邦の欺瞞を認識しつつも、結果的に連邦の歯車として行動している。ここに特殊日本的集団主義の支配する当時の日本という社会状況が反映されている。その後、日本社会にも個人主義が芽生えるようになってガンダムの主人公も変わった。

1990年に制作『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』の主人公コウ・ウラキは地球連邦軍の正規兵であるが、連邦の卑劣さに苦悶する。1996年から制作された『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』の主人公シロー・アマダも地球連邦軍の正規兵であるが、敵兵と心を通わせ、軍を抜ける。

反体制志向はアナザーガンダムでは一層顕著である。『機動戦士ガンダムSEED』では主人公キラ・ヤマトらは交戦中の二国の何れにも与せず、第三勢力になる。『機動戦士ガンダム00』では主人公らは最初から何れの国家にも属さない。

UCの主人公バナージ・リンクスは、最初は成り行き上、連邦軍に巻き込まれる。これは往年のガンダムシリーズと同じであるが、それに甘んじずにネオジオンと行動を共にする。腐った連邦の歯車で終わらない現代的な主人公である。敵を撃てないと情けない絶叫をする主人公は戦場ではあり得ないが、物語としては人間味があって好感が持てる。

ガンダム世界では連邦の腐敗と反比例するよりも、ジオン軍人は魅力的に描かれている。0083ではジオン軍人の武士道的な美学を描いたが、UCでは追い詰められたジオン残党の悲しさを描いている。(林田力)


茶道


茶道と禅宗


茶道と禅宗は関係が深い。以下のような言葉がある。

千利休「茶の湯は、第一仏法を以て修行得道する事なり」(「南方禄」)

山上宗二(利休の高弟)「茶の湯は禅宗より出でたるに依って僧の行を専らにする也。珠光、紹鴎も皆な禅宗也」(「山上宗二記」)

千宗旦「茶禅同一味」

「茶事は禅道を宗とする事」(「禅茶録」)

武野紹鴎の遺偈には「料知す、茶味、禅味と同じことを」とある。

現代でも『主客一如 禅と茶 無からの発想』(近藤道生、尾関宗園、尾関紹保著、金融財政事情研究会、1995年)という書籍が出版されている。著者の一人・尾関宗園は大徳寺大仙院の住職である。

茶会では禅僧の墨蹟がよく掛けられる。「南方録」に「掛物ほど第一の道具はなし、客・亭主共に茶の湯三昧の一心得道の物也、墨跡を第一とす、其文句の心をうやまひ、筆者・道人・祖師の徳を賞翫する也」とあるとおりである。

上記文言の和訳は以下の通りである。「道具の中では掛け物が第一であります。客も亭主も、ともどもに茶の湯の道を究めることによって、精神の高みに到達しなければなりません。掛け物はその指標となるものです。それには墨蹟がもっとも適切であります。まず、その語句の心を知ること、次にその筆者である求道者、または禅僧の徳を敬うのです。」(戸田勝久訳『南方録』教育社、1981年、108頁)

以下の解説がされている。

「其ノ掲グル所ハ修養ニ資クル語類ニシテ、静坐瞑想ニ耽ルベキ草庵ニハ至要ノ者ナレバ、一心得道ノ者ト云ヘルナリ。」(柴山不言『喫茶南方録註解 上巻』茶と美舎、1972年、163頁)

「客も亭主も、その墨蹟の文句によって心を統一し、席の情調を保ち、茶の湯の精神を浄化するものであるからで、これが本当の点茶の醍醐味である。」(中村直勝『茶道聖典 南坊録』浪速社、1968年、115頁)

禅宗では仏像や仏画の代わりに自ら師とする人の書蹟を拝することから墨蹟が尊重され、茶の湯の世界でも倣っている。村田珠光が大徳寺の一休宗純に参禅し、印可の証明として授けられた墨蹟を、茶席に掛けたのが由来とされる。このように禅僧との関係性を抜きにして墨蹟を論じることはできない。

禅寺の中でも茶道は大徳寺と関係が深い。京都の臨済宗の寺院には寺の特徴から名づけられた愛称がある。妙心寺「そろばん面」、相国寺「声明づら」、東福寺「伽藍づら」、建仁寺「学問づら」、妙心寺「算盤づら」、大徳寺「茶づら」と呼ばれる(筒井紘一『茶人と名器』(主婦の友社、1989年)94頁)。


『釜と炉・風炉 扱いと心得』茶道具の写真撮影の参考


淡交社編集局『釜と炉・風炉 扱いと心得』(淡交社、2007年)は茶釜などを説明した書籍である。茶道具を種類別に全6冊にまとめた『茶道具百科』の第2巻である。釜、風炉、炉、五徳、炉縁を解説する。オールカラーで写真をふんだんに使用しており、分かりやすい。「今までにないアングルの写真を採り入れ、細部が見やすくなりました」と記載されている通り、茶道具の写真撮影の参考にもなる。

茶釜は茶道具の中でも特に重要性が高いものである。茶会を催すことを「釜を懸ける」、年の初めの茶会を「初釜」というように釜は茶会の代名詞にもなっている。井伊直弼『茶湯一会集』には「釜は一室の主人公に比し、道具の数に入らずと古来いひ伝え、此釜一口にて一会の位も定まる」と記載する。(林田力)